プロフィールページをご覧下さりありがとうございます。
初めまして、カウンセラーの「こころ玉貴」です。
私は小さなころからずっと、大人からも、子どもからも 「たまちゃん」 と呼ばれることが多いので、みなさまもよかったら 「たまちゃん」 と呼んでくださいね。
実は、幼い頃、私はいつも「孤独」に苦しんでいました。
はじめに、私がどんなカウンセラーなのかを知っていただくためにも、私の「孤独との戦いと成長の物語」をお話しさせてくださいね。
はじめて感じた「孤独」という存在
私が3歳の時、両親と私は、兵庫県神戸市から大阪府と京都府の間にある山の麓の小さな町にある団地に引っ越しました。そこは、同じ色、同じ形の建物が十棟ほど規則正しく並んで、子供の遊ぶ空間としては安全でしたし、ベビーブームであったこともあり、同じ時代の子供たちが何人もいるような環境でした。
私も、団地前の広場で、最初は当たり前のように同じ年頃の女の子たちに交じって遊び始めました。
しかし、暫くすると、何か様子が変わり始めました。
私たち子どもが団地の前で遊んでいると、午後3時に誰かのお母さんが広場におやつを持ってきてくれましたが、ある日を境に
「たまちゃんは食べんときな。」
と他の子たちに言われ、私だけおやつがもらえなくなりました。
かくれんぼをしても、最後まで見つけてもらえず、気がついたら、みんな家に帰ってしまっていたこともありました。
ただ、その頃はまだ幼過ぎて、自分が周囲に何をされているのかよくわからず、哀しい、淋しい気持ちだけが心に残っていました。
幼稚園でのいじめ体験
4歳になり、私は私立のクリスチャン系の幼稚園に通うことになりました。
そこは山の上にあり、バスで通園しなければなりませんでした。
同じバスに「Mちゃん」という女の子がいました。
彼女は「Nちゃん」という子と仲良しで、よく一緒にいました。私とNちゃんは、幼稚園の同じ組でしたが、Mちゃんは、隣の組でした。同じ組だということもあり、Nちゃんと私は、徐々に仲良くなっていきました。
その為、通園バスの中では、Mちゃんと、Nちゃんと私との三人で一緒にいることが多くなりました。
最初の内は、3人で平和に過ごせていたと思います。
しかし、だんだんと、Mちゃんの私に対する行動がおかしくなってきました。
私に対して日常的に意地悪なことを言ったり、仲間外れにされることが多々ありました。
また、私を悪者にしようとするようなことも行われるようになりました。
例えば、通園途中のバスの中で突然、彼女が大きな声で泣き出して、こういうのです。
「たまちゃんが、つねった~!」
もちろん、私は何もしていません。
しかし、バスに同乗していた先生は、彼女が大泣きしているので、そちらを信じます。
「どうして、つねったりするの?」
先生は私に問いただしますが、実際何もしていないので、「何もしていない」と言うしかありません。すると、先生は
「嘘つくんじゃありません!」
そう、私を激怒し、園に着くと、私を園長室に連れていきました。
何を話したのかは覚えていませんが、何時間も園長先生と2人きりでその部屋にいた記憶があります。
そのせいで、クリスマス会の練習に出られなかったということを覚えています。
そんなことが何度もあったせいで。Nちゃんも母親に私と付き合わないように言われたこともあり、私から離れていきました。
「誰も私を信じてくれる人はいないんだ・・・。」
この時期から、私は「孤独」という感情とお付き合いすることになりました。
更に、年長組になると、私とMちゃんは同じ組になりました。今度は、同じ組の女の子たちを巻き込んでの嫌がらせや仲間外れが始まり、いつの間にか、私はいつも独りでいることが多くなりました。
他の子どもたちが、一緒に遊でいたり、笑い合う姿を見るたびにうらやましくて…。
でも、どうして自分が、こんなにも悲しいのか、寂しいのかがわからなくて、
「私はここにいるよ!悪い子じゃないよ!誰でもいいから私をわかって!」
本当は、大きな声で、そう叫びたかったのです。
でも、小さな私は、その勇気を出すことはできませんでした。
そのような日々が一年以上は続いていたと思います。
私はそのことを、妹が産まれたばかりで忙しそうな母親にも、出張が多く、あまり家に居られなかった父親にも打ち明けることができませんでした。
ある日、通園バスの停留所でお迎えをしていたとき、Mちゃんがバスのステップから私を突き落とす瞬間を、母が見てしまいました。
母は驚いてすぐに幼稚園の担任の先生にそのことを報告しました。 担任の先生は、その後、陰で私たちの様子を見守ることにしました。
後日、先生から母へ、Mちゃんが、他の女の子たちと一緒に私をいじめているのを何度も見たとの謝罪があったそうです。
幼稚園側とMちゃんの両親との話し合いが行われ、その後、Mちゃんが私に関わることはなくなりましたが、その時点において、すでに、幼稚園の中に友達はおらず、私がいつも一人ぼっちでいることに変わりはありませんでした。
家でも学校でも居場所のない小学生時代
◇家出と失った親友◇
小学校に入ってからも、私の試練は続きます。
1年生~4年生の時、同じクラスに「Kちゃん」という女の子がおりました。彼女の父親は某大手電機メーカーに勤務していて、丘の上の高級住宅街の大きな一軒家に住んでいました。
Kちゃんは容姿端麗で、スポーツ万能。男女問わず、憧れの存在でした。
私はと言えば、その頃、ぶくぶく太っていて「生きたトンカツ」というあだ名をつけられ、いつもクラスメートに、からかわれているような存在でした。
1.2年生の時は、まだ、私以外にもKちゃんのターゲットになっている女の子がおりました。
「今日は、誰がいちばん意地悪されるのだろう…。」
今考えると、精神的にギャンブルのような毎日です。
他の子が、ターゲットになっている時が、唯一ほっとする時間でした。
家に帰っても、母親は幼い妹の世話にかかりっきりで、母自身のストレスがたまっていたのでしょう、私に対してイライラして、声を荒げたり、時には手を上げたりすることも増えました。
学校で不安な分、本当は思いっきり母に甘えたかったのです。
色んな話を聞いてもらいたかったのです。
でも、私の言うことに対して、母は眉間にしわを寄せて顔をしかめることがよくありました。
その表情を思い出すと、心がキューっと雑巾のように絞られるような、とても苦しい気持ちになったのです。
そのために、私は自分の思いを母に話すこともできず、毎日、自分の本当の居場所がどこにもない気持ちになっていました。
そのような私にも、たった一人、親友と呼べる友達のSちゃんがおりました。
Sちゃんも、Kちゃんからのいじめのターゲットになることがしばしばあり、同じ立場同士ということもあって、私とSちゃんは自然と仲良くなりました。
学校帰りには、新聞配達の営業所であったSちゃんの家に、毎日のように立ち寄って遊びました。
ただ、学校ではKちゃんから逃れるためにあくせくし、家では母の機嫌に左右される毎日に疲れてしまい、私は子供ながらに絶望していました。
ある日、私は限界を感じてしまい、
「一緒に家出しよう。」
と、Sちゃんに提案しました。
私は、Sちゃんといっしょに、東京にいる優しい祖父母のところに逃げるつもりだったのです。
最初は少し渋っていたSちゃんでしたが、私のしつこい説得に根負けしたのでしょう、最後には、一緒に家出することを了承してくれました。
Sちゃんと夜中に近所で会う約束をして家に帰った私は、リュックサックに、これまで貯めていた貯金箱のお金や、お気に入りのおもちゃ、家にあったお菓子やリンゴなどを母に見つからないようにこっそり詰めて机の下に隠しました。
その後は、内心ドキドキしながらも、普段通りに過ごそうとしていました。
夕飯を食べ終わったころだったでしょうか、突然、家の電話が鳴りました。
電話をかけて来たのは、Sちゃんの父親でした。
「たまちゃん、嫌がるSちゃんに、無理やり家出させようとしたんだって?」
電話を切った母が、困惑した顔で私に言いました。
Sちゃんは、本当は家出などしたくなかったのでしょう。
当時、常に母のヒステリーにビクビクしていた私と違って、やさしい両親の元に居れば、安心だったのだと思います。
Sちゃんは、夕食を食べている時
「私、家出なんかしたくない!」
と、急に泣き出したそうです。
電話の後すぐに、母と私はSちゃんの家に謝罪に行きましたが。普段優しいSちゃんの父親が、怒りをかみ殺しているようすを子供ながらに感じました。
また、その時、私を見たSちゃんの顔・・・。
誰かを裏切ってしまった人間の顔とは、こういう顔なんだ。
今でもその時のSちゃんの私におびえるような、同時に憐れむような、なんともいえない表情が忘れられません。
私は、親友に「裏切られた」と感じる「喪失感」と同時に、Sちゃんにあのような顔をさせたことに対する「罪悪感」で胸が張り裂けそうになりました。
その日を境に、Sちゃんは、私とは距離を置くようになりました。
私は初めてできた親友を失い、心が空っぽになってしまったような気持を抱きながら、日々をやり過ごすようになりました。
母からは、私が「浅はかな家出計画」を企てたことを怒られる以上に、私の浅はかな計画と行動を馬鹿にするように笑ったと感じ、私の中には「自分の苦しみに気付いてもらえず、受け止めてもらえなかった」という気持ちだけが残りました。
今思えば、母だって、自分の娘が自分の元から逃げ出そうとしたことに対して、とても傷ついていたに違いありません。きっと、自分の娘が、自分の元から去ろうとしていた事実を受け止めきれなかったので、私を馬鹿にするような態度をとるしかなかったのでしょう。
でも、その時の私は、母の心の痛みに気が付くにはあまりにも幼く、自分の毎日の生活にも絶望していたのです。
◇孤独と死への意識◇
3・4年生の時も、私はKちゃんと同じクラスになりました。
Sちゃんや、1.2年生の時に、Kちゃんのターゲットになっていた他のクラスメートは、みんな違うクラスになりました。
相変わらず、Kちゃんは容姿端麗でスポーツ万能、何でも1番で、男女問わず、憧れの存在でした。
しかし、たった一つだけ、私が、彼女より優っているものがありました。
それは、学級新聞に載せられる記事の数でした。
3・4年生の時の担任の先生は、毎日学級新聞を作り、生徒に配っていました。そこには、生徒が書いたコラムや詩が載ります。教室の窓際には投稿箱があり、生徒が自由に書いたものを入れることができ、その中から先生が毎日一つ、良いと思ったものを選びます。
教室の後ろには、クラス全員の名前が書かれた大きな表が貼られていて、作品が掲載されると、自分の名前のところにシールが貼られます。誰が一番たくさん載ったかが一目でわかるようになっていました。
私は、誰かと競う気持ちは全くなく、ただ書くことが楽しく、それが学級新聞に載ると母が喜んでくれるのが嬉しかっただけです。でも、彼女は、自分が一番でないことが許せなかったようです。
まだ、 3年生になったばかりの時、4月生まれのKちゃんは、クラス全員をお誕生日会に呼びました。当時は私も招待されましたが、4年生の4月の誕生日会には、クラスで私一人だけが呼ばれませんでした。
しかし、彼女は、次の日の作文に「クラス全員を誕生日会に招待しました」と書いて、先生の前で発表しました。その時、私が呼ばれていなかったことに触れるクラスメートは一人もいませんでした。
私は、まるで自分が透明人間になったかのような気持ちになりました。
「私なんて、居ない方がいいのかな。」
そんな気持ちになることが多くなりました。
他にも、学級会で覚えのない罪を着せられ、糾弾され、先生にも信じてもらえず、酷く怒られたこともありました。
クラスの中には、彼女が見ていないところでは、こっそり話しかけたりしてくれる子もいましたが、Kちゃんの前では、私に無関心であるかのように振る舞いました。
私は、いつの間にか、またいつも一人ぼっちでした。
一方、家庭では、母親が、私に対してどんどん厳しくなってきていました。
おそらく、その頃、ご主人の単身赴任で10年以上滞在していたブラジルから、母の姉夫婦がいとこたちを連れて帰国したことが大きく影響していました。
2,3歳上のいとこたちは、大変、容姿端麗で、頭脳明晰でした。
母は常に、いとこたちと私を比べるようになりました。
いとこたちに比べて出来の悪い私にイライラを募らせるようになったのです。4年生の夏休み、家族旅行に行った先の宿泊先のロビーに、私と同じようなワンピースを着た、同じ年齢くらいの可愛い女の子が居ました。
母は、その女の子と私を見比べると、急に私に向かって声を荒げました。
「あんたって、なんてみっともないの!」
別のある夜は、トイレに行きたくて目を覚ますと、リビングで両親が相談をしているようでした。
そっと、隠れて耳を澄ましていると、母が父に向って、このように言っていました。
「私、どうしても、『たまき』と気が合わない。『せり(妹の仮名)』の方が好きなのよね。」
母の言葉に対して、父が母に言いました。
「人間なんだから、自分の子供だからって、多少の好き嫌いはしょうがないよ。」
両親のこのやりとりを聞いた時、私は自分の周りの世界が崩れ落ちるような感覚になりました。
私には、現在2人の息子がいます。
もう2人とも成人を過ぎましたが、息子たちを産んでから今まで、一度も、2人を「好き・嫌い」の天秤にかけたことはありません。その前に、そのような気持ちになったことが一度もないのです。
いつだって、私の中で2人は平等に愛を注ぎたい存在でしかありませんでした。
ですから、この時の母の気持ちを完全に理解することは難しいです。
今は、おそらく、当時は母の心の中に、自分の子供に好き嫌いをつけてしまうような原因があったのだろうと思っています。
母自身が、当時、心の問題を抱えていたのではないかと思っています。
家に居場所がないと感じていた私は、学校から帰ると、一人で近所を歩きながら、当時よく見かけた野良犬と遊んだり、団地の知らない家のインターフォンを押して、招き入れてくれた老夫婦の家にお邪魔したりしていました。
それでも、自分の世界が哀しみに包まれている理由が全くわからず、困惑するばかりの毎日でした。
自分が何故、仲間外れにされなくてはならないのか‥
何故、嫌なことをされてしまうのか‥
何故、いつも一人ぼっちなのか‥
生きづらさを抱えきれず、自分自身の存在を消したいと思うこともありました。このまま自分がいなくなっても、何も変わらないのではないかと思うこともありました。
夜中、両親や妹が寝静まってから、台所からこっそり包丁を持ち出して、
「これを自分に刺したら楽になれるのかな。」
そう思って、試そうとしたこともありました。
そのような、孤独と絶望の入り混じった毎日が、私の精神を蝕んでいたようで、家の中で独りでうわごとを言うようになっていたようです。
母の話によれば、私が部屋の隅の誰もいない場所を見つめながら、その日にKちゃんにされたことや、他のクラスメートがその時どのように、ふるまったかなどをただ、1人でぶつぶつとつぶやいていたそうなのです。
そのような私の様子から、母がようやく私の異常に気がつき、担任に私の家での様子を伝えて
「隠れて、先生がいない時の教室の様子を見て欲しい」
と頼んでくれたそうです。
後日、母とKちゃんの母親が学校に呼ばれ、先生が見た教室での一部始終が報告されたと言います。
その時は、もう、4年生も終わりに近づいていました。それから間もなく、私たちは5年生になり、私とKちゃんは別々のクラスになりました。
◇絶望の沼に落ちていく◇
時間は少しさかのぼります。
小学3年生の終わりごろ、両親は私の成績があまり良くないことを心配して、京都で有名な中学受験の塾に通わせることにしました。この塾に入るには試験があったので、4年生の後半から毎晩、学校から帰って試験勉強を始めました。
試験に合格して塾に通い始めると、5年生になるころには、学校の勉強が簡単に思えるようになり、成績もめきめきと上がって、クラスメートからは「天才」と呼ばれるまでになりました。
しかし、クラスメートとは距離を感じ、友達と接するときにも、どこか心がぎくしゃくしていました。
「本当はだれも私のことなんか好きじゃない。」
心の中で、常にそう囁きかける自分がいたのです。
学校帰りに、他の友達が遊んでいるときも、私は電車で塾に通いました。
塾では毎日テストがあり、廊下に成績が掲示されました。更に、月ごとの成績に基づいてクラスが分けられます。テストの点数や順位が悪かったり、クラスレベルが下がれば、両親が落胆することがわかっていますから、塾での生活は、まるで戦争のように感じられました。
塾にも友達はできましたが、彼らはあくまでライバルで、心を許すことはできませんでした。
そのような中、6年生の夏に父が仕事でトラブルに見舞われ、12年間住んだ大阪から東京の祖父母の家に、急に引っ越すことになりました。
私は「これで何もかもが変わる」と、淡い期待を抱きました。
しかし、転校した東京の学校では、他の転校生3人とともに教室の隅に固められ、席替えの時も仲間に入れてもらえませんでした。クラスメートからは「服が暗い」「成績がいいことを鼻にかけている」と陰口を言われ、他の転校生たちとともに、仲間外れの日々を過ごしました。
家庭でも、母と祖父母の折り合いが悪く、祖父母が母に意地悪をする姿を目にし、信じていた祖父母の裏側を見て何も信じられなくなりました。気の強かった母が弱音を吐くようになり、教会に通うようになりました。
勉強に集中できる環境ではなくなったこともあり、結果的には中学受験を断念することになりました。
人の心と向き合う ~「孤独感」を手放すために~
◇明らかになった真実◇
幼い頃から人に攻撃されて孤独になることが多かったため、中学生になっていじめられることがなくなっても、心のどこかで人を信じられず、友達ともうまく付き合えませんでした。そんな自分に対してもどかしさを感じ、自分を受け入れてくれなかった人たちを恨んでいました。
幼少期の辛い思い出ばかりが残る自分の人生が憎たらしく感じていました。
そんな日々の中で、私の考えを変える出来事がありました。ある日、母がテレビを見ながら何気なく言った一言です。
ニュースで、親が子供を虐待して亡くならせた事件が報道されていて、それを見た母がふと口にした言葉でした。
「そういえば、あなたをいじめていたMちゃんも、Kちゃんも、お母さんから虐待されていたんだって。」
それを聞いた瞬間、頭の中で何かが弾けたように感じました。
私はその時、ある場面を思い出していました。
それは、小学三年生になったばかりの4月、まだ私がいじめを受けていなかった頃のことです。Kちゃんのお誕生日会に招待された時のことでした。Kちゃんはリビングのカーテンを閉めていいかどうか、お母さんに聞いていました。お母さんが「いいよ」と答えると、Kちゃんはとても嬉しそうに
「うちのお母さんって、すごく優しいやろ?」
と自慢げに言ったのです。
その時、私は
「どうして?そんなことで?」
と、なんとなく違和感を抱いたことを覚えています。
私を幼稚園の時にいじめたMちゃんも、小学校で私をいじめたKちゃんも、毎日のように母親から手をあげられ、酷い言葉を浴びせられていたといいます。
「自分を甘えさせ、擁護してくれるはずの母親から毎日のように攻撃され、二人はどんな気持ちで毎日を過ごしていたんだろう…。それは、きっと、私の母に対するわだかまりとは、比べ物にならないのだろう…。」
「彼女たちが人知れず抱いていた悲しみが、私へのいじめに、きっとつながっているはずだ。」
そう思うようになりました。
◇孤独感を手放すということ◇
自分を酷くいじめた二人が、母親から虐待を受けていたことを知ってから、私の人生における最大の興味は「人の心」になりました。
私は、人が人に攻撃を与える理由を考えるようになりました。
自分が受けた苦しみを、別の人間に与えてしまう理由を知りたくなりました。
人の悲しみや怒りが、どこから来るのか、どんどん知りたくなりました。
その為に、大学では心理学を専攻し、「人の心」について学びました。
大学の演劇サークルで別の人間を演じることで、人の「感情」について追及してみました。
しかし、私の中で根強く居座り続ける「孤独感」を、なかなか手放すことができず、常に誰かと一緒にいることで、「孤独感」を埋めようとしていました。
しかし、どんなににぎやかな場所に行っても、誰かとお付き合いをしても、いつも「孤独感」が私を苦しめました。
私が生まれて初めて「孤独感」を手放したと感じたのは、長男が生まれた時でした。私を孤独から救ってくれた2人の息子たちは、現在は成人しています。
息子たちが生れてからも、私の人生は決して平穏とは言い難いものでしたが、それでも彼らがいるだけで、私は2度と「孤独感」に苦しむようなことはありませんでした。
それだけで、すべてを乗り越えられると感じていました。
息子たちがいることは、私にとっては神様のプレゼントのようなもの。
もちろん、父親になってくれた私のパートナーに感謝でいっぱいです。
これほど、人間にとって幸せなことはないのではないかと思えました。
しかし、そこで疑問がうまれます。
「じゃあ、子どもを産めない人は幸せになれないの?孤独感を手放せないの?」
「いいえ、きっとそうではないはず・・・。
きっと、人が孤独による苦しみから救われる方法が、他にもあるはずだ・・。」
それから、今に至るまでずっと、私はその方法を考えて生きてきました。
◇人の心に寄り添う ◇
次は、私が誰かに、何かしたい・・
私は、自分の想いを詩に込めて歌うことに喜びを見出し、まずは自分と同じような苦しみを味わう子どもたちを生み出さないために何かをしたいと考え、シンガーソングライターとして、NPO法人でいじめ撲滅活動にも参加しました。
そして、様々の人の相談をお聞きする機会が増える中で、「カウンセリング」の効果について改めて注目しました。
それは何故か・・・?
人は、誰かに自分自身の心を、「気持ちを受け止めてもらえた」「わかってもらえた」と感じることで、「孤独感」を手放すことができると気付いたからです。
誰かに、話を聴いてもらうだけでいい。
そっと、心に寄り添ってもらうだけでいい。
それだけで、「孤独感」にのみこまれることを避けられるのです。
現在、私は、民間の学童保育施設でも、子どもたちと向き合う仕事をさせていただいていますが、これからは、子どもたちだけでなく、孤独で苦しむたくさんの方に寄り添わせていただく機会をもたせていただくことを希望しています。
自分自身の体験から、「孤独感」ほど、心を苦しめることはないと私は信じています。
だからこそ‥
「人の心に寄り添う」ことが、巡りめぐって、「自分と同じように苦しむ子どもや大人を生み出さないこと」に繋がると信じて、残りの人生を歩みたいと望んでおります。
この度は、最後まで、お読みいただきありがとうございました。
どうか、今、お悩みを抱えていらっしゃるならば、是非、私にお話を聴かせていただけませんか?